「誘惑」  02−10−13   ルカ4:1〜13

 主イエスは、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられましたが、それを
退けてしまわれました。この出来事を読む時、私たちも悪魔の誘惑に
負けないようにしたいと思いますし、誘惑を退ける主が共にいてくださる
ことを心強く思ったりします。
 しかし、この悪魔の誘惑は、私たちが受ける誘惑であるだけでなく、
私たちが主に対して発する言葉でもあります。
ここには、私たちの罪の姿が映し出されています。

 @<人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る総ての
言葉によって生きる>(申命記8:3)を引用して、主は語りかけて
くださいます。それは、「パンなど必要ない。」と、おっしゃるのでは
ありません。エジプトから脱出したイスラエルの民にマナと呼ばれる
不思議な食物を与え、励まし、戒めながら進む道を示し、すべての
面で養い導いてくださった神への深い信頼を思い起こさせるための
言葉です。
 目の前の必要を得ることばかりに心を奪われることの多い私たちに、
主イエスは、「すべてを養ってくださる神への深い信頼の中で生き
なさい。」と語りかけてくださいます。

 
 A「わたしを拝むなら…」これは、主イエスの上に立ち自分の
僕として従わせようとする罪の姿です。「自分の僕になってくれれば、
持っている物を与えましょう。」
 しかし、自分が主人になっても真の幸いに進めはしません。
人間には、真理を見通す力も知恵もないからです。主イエスは、
「全能の主を拝み、主に仕える」ことでしか、真の生き方に進めない
ことを語りかけてくださいます。

 B神を試みる罪の姿です。証拠を見せろと迫るのです。
これは、神さまとの信頼関係が破れている不幸な姿です。
そのままでは、神さまとの信頼関係の深まりなど望めませんが、
「疑う必要などない。安心して神さまとの関係の中にいなさい」と
主は語って下さいます。

 
どの罪も、人を真に生かすことを妨げる罪です。
そんな罪を抱え、荒れ野のようになっている私たちの所に、
主は来て下さり、語りかけて下さるのです。